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価値観という剣

「自分、価値無いなー」、とか思ってる今日この頃です。
自分で自分の絶対的な価値を見出せれば良いんですけどね。
どうしても他者の目線から考えて、自分の価値を測ってしまいます。
寂しい人間だー・・・。
客観的であることは良いことだけれど、あまりに客観であると主観を見失ってしまうんですね。

アイデンティティの拡散とか何とかわけのわからない用語で自分を固めてみたって、そんなの無駄だよねー、ってことは理解出来るんですけどねー。

なんというか、とても希薄に、そして無責任に「死にたいなー」とか一瞬感じてしまいます。
でも、その言葉に意味は無いんだろうな。
うん、だから無責任さゆえの言葉なんだろう。
そうして、この文章がまた今日も誰かを傷つけるんでしょうね。
もっと言えば、その言葉に重きを置いている人々を傷つけるんでしょう。
「死にたいなんて、よくもぬくぬくと暮らしているお前が言えるな」と。
デリケートな言葉ほど、両者における比重の違いを生み出すのでしょうね。
その比重の違い、価値の違いが、剣にもなり得るんでしょう。

話がずれましたね。
そう、自分の価値についての話でした。

仮に、自分に価値があったとしても、それは一時的な価値でしか無いでしょう。
広義の範囲では、おそらく僕が死ぬまで。
狭義に限定するならば、この一瞬一瞬でも僕の価値は変動します。

要は、人間の価値は株のようなものなのであり、そして個人個人にとっての比重が違うのでしょう。
例えば、歴史に昇華された人物達の価値は、絶対的な価値であるように思われますが、世界中の人々が同じように彼の人の価値を認めているわけではないはずです。

価値は常に変動するものであり、人によって価値の重さが違うのです。
これが価値観の相違、ってやつでしょうか?
だとすれば、人を傷つけるのは価値観の相違でしょう。
先程の「死にたい」という言葉と同じです。
簡単な例を挙げれば、「イジメ」でしょうね。
「あいつはクラスの中でも価値が無い。だからいじめても自分には何の影響もない」
「いじめっ子はクラスの中での地位が高いから、とりあえず逆らわない」
そんなことを無意識に感じていませんか。
それが、価値の比重の相違というものなのでしょう。


人間は誰しも価値観というものを持っているから、お互いに傷つけあう。
戦争が普遍として、この地球上に居座っているのも、全て価値観の相違が原因なのでしょうか。
価値観が統一されない限り、争いは普遍として起こり続ける。

人間は理性と知恵を持ったばかりに、あまりにも残酷であるに過ぎないのかもしれません。
ですが、それを悲観するだけではなく、その残酷さと上手く折り合いをつけていかねばなりません。
厭世主義の真っ只中にいたら、それこそ「死んでいる」と同義です。

地球に適合しない人間はいないはずだと信じたい。


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