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みらい

未来の自分を想像するというのは、なんとも生き急ぎな気がします。
おいおい、日本の健全たる高校生たちが勉強に勤しんでる間、イタリアの車工場の口髭蓄えたおっさん達は酒飲んでへらへらしてんだぜー、と思うと、「就職どうなんねん、すわニートか」と思ってしまう自分がなんだか情けないやら面白いやら・・・。
・・・イタリアの件はまったくの自分の想像ですがね。
実際、酔っ払って遊んでるかどうかは定かではありません。


不思議なもので、少し前までは『高校生』なんて未来、想像も出来なかったのに
今となってはもう高校生活も終わろうとしていますよ。
青春の佳境なんてとっくに過ぎ去ったものになってしまいました。
今にして思えば、あだち充の書く青春ラブコメにはほど遠い青春だったなぁ、と苦笑してしまいます。
いや、むしろそういうことをしみじみと感じるようになったのが、青春の終わりの証かもしれませんね。

未来という可能性は今より遠くて、明るく、楽しいものだと思っていたけれど、
それは得てして、理想という妄想の枠組みからは外れているものだと思います。
だから、未来のことに大体の目星をつけておいても仕方が無い面というものが未来にはありますよね。
人生、一寸先は闇ですし、自分だけの世界で生きているわけではないのですから、自分に不都合なことが起こることなど日常茶飯事です。
そこに上手く折り合いをつけて、皆、生きているんですよね。
理想が実現しなくても、それは自分のせいだけではないし、だからといって他人のせいでもない。
むしろ未来は実現する、実現しないというような可か不可の二択ではなくて、色んな要素が色んな風に絡まりあって形成されていくものなのでしょう。
それならば、未来を想像することは意味など無いことなのかと思います。


しかし、やはり僕らが未来という可能性を捨てきれないのは何故でしょう。
レッセフェールに生きられないのは何故でしょう。
未来は自分の理想を大きく外れる可能性を孕むものであるのに、、
何故不確定な未来に対して、人間はこんなにも挑戦的なのでしょう。
それはやはり生物は進歩するものであるからでしょうか。
いや、生きることは死という終わりに向かうための歩みであるからでしょうか。


チコは、未来へと向かう気持ちが僕らに未来を想像させるだと思います。
未来という可能性はあくまで可能性の域を出ないのであって、
未来が現実になった時、実際はどうなるかなど誰にも分かりません。
冒頭で「生き急ぎ」と書きましたが、未来を想像することは生きるために前へと進むためのエネルギーでもあるのです。急いでいるわけではなくて、生きる為に未来を見据えているわけです。
前に進むことは生きることであり、未来を見つめることなんですね。

実現する可能性は低くても、人間が未来を想像しなくなったり理想を語らなくなってしまったら、そこで人間は生きること進歩することをやめてしまった生物になるのでしょう。
否、進歩しないという意味で、人間は生物とは言えなくなってしまうのかもしれません。


そして未来とは、理想や想像を掻き立て生きる力を生み出すものなのです。
未来という可能性は結果こそ平等ではないものの、誰にでも一度は与えられる平等なものであり、未来を守ることが、生きる力を維持することにも繋がるわけです。

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